単語「平和」と「和平」との違いについて考えてみたい。

<辞書(大辞泉)>
へい-わ【平和】
[名・形動]
1 戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。また、そのさま。「世界の―を守る」
2 心配やもめごとがなく、おだやかなこと。また、そのさま。「―な暮らし」

わ‐へい【和平】
[名・形動]
1 人や国が争いをやめて仲直りし、平和になること。「―の道をさぐる」「―交渉」
2 世の中や気候などが穏やかであること。また、そのさま。

<NHK梅津正樹アナウンサーのご意見>
平和は状態を表し、和平は状態の変化を示す。だから、使い方に違いがある。例えば
  平和維持 平和主義 平和な国 平和な時間
  和平交渉 和平工作

<中国語との違い>
 現代の中国語には「和平」という単語しかない。昔には「平和」という単語もあったが。

日本語の「和平」も「平和」も中国語に典拠をもつ漢語。「和平」は早くも奈良時代の文献に現れて以来、各時代、各文章ジャンルに亘って多用されていた。それに対して、「平和」は日本での文献への登場が遅く、中世以降に下って初めて散見するようになたが、使用量、範囲が「和平」を下回る。意味用法としては、「和平」は基本的に中国語の本来のそれを踏襲していたが、鎌倉時代の文献にサ変動詞として使われて日本語化した用法もみられ、明治前期頃から「平和」の意味限定化によって本来の中国語より意味範囲が縮小するようになった。つまり、本来「和平」の示す意味範囲の一部が「平和」によって表されたため、意味も用法も狭まることになった。一方の「平和」は元来の物事の一般から紛争や戦争という特殊なことに変わって、限定的にそれのない状態を表す意味となって、今日に至ったのだ。という研究結果もある。

日本の伝統色は色名表現が豊か。名前はたいていの場合は何かの比喩表現であり、由来がある。柔らかな色と独特な名を楽しもうね。

赤は生命の色。太陽や火という。人間にとって欠かすことのできない生命の源を象徴している。太陽によって一日がアケル。そのアケルという言葉がアカになったといわれている。天照大神は天を照らす太陽神、アカはまた、神の色、聖なる色であるといえる。

桜色(さくらいろ)
 その名のとおり桜の花に似た色。わずかに紫みのあるごく薄い紅色。江戸時代の紅染めの最も薄い色。

鴇色(ときいろ)
 鴇の風切羽や尾羽のような色。明るい紫みのある江戸時代の赤。鴇は明治のはじめごろまで全国に生息していた。時色、朱鷺色とも。

今様色(いまよういろ)
 紅花の紅色素で染めた紅梅色の濃い色。紫みの強い色。今様色というのは今(当世)流行の色という意味であり、今とは平安時代をさす。源氏物語にもたびたび登場する。

真緒(まそお)
 赭、朱(赤色の土)に対して天然の朱、辰砂(水銀と硫黄の化合物の鉱物)の色のことをいう。

青は明と暗の中間の漠然とした意味でとらえていたようである。現代の灰色と似た感覚である。また青は未熟なものを指すが、「赤=熟」「青=未熟」という考えによるものとであろう。

秘色(ひそく)
 もともと中国の青磁器の色をいう。ごく薄い緑がかった青。この名前は唐の時代天子への供進のものとして庶民の使用を禁じたことからついたといわれている。

瓶覗き(かめのぞき)
 藍染の中で一番薄い色。柔らかい緑みのある青。藍染は薄い色ではやや緑みとなるのだ。由来は藍染の染液をためておく藍瓶にちょっとだけつけて染めたという意味からきている。

縹色 (はなだいろ)
 藍で染めた純正の青。古代より藍だけで染めたものを縹とう。濃淡によりさまざまな種類がある。
  
瑠璃色(るりいろ)
 宝玉の瑠璃の色。濃い紫みの青。瑠璃とは天然ウルトラマリンの原鉱石であるラピスラズリのことで、古来より七宝のひとつとして珍重された。この冴えた色を藍だけで染めるのは相当な技術を要する。

宝石とは、色や輝きが美しく、希少性、耐久性をもつ石のこと。

もっとも有名な宝石はダイヤモンドであろう。地球上でもっとも硬い鉱物、無色で強い輝きがその特徴。ダイヤモンドはダイヤモンドでしか研磨できず。原石のままでは美しさが整わない。そのため技術が確立されるまでは、美しい石という認識がなかったそうだ。

トルコ石はイランやエジプト産出したものが、トルコを通りヨーロッパへと運ばれていたことからターコイズとも呼ばれた。トルコ石は、古代エジプトやインカの時代から装飾品として使用され、また現在でもインディアンジュエリーに多く使用されているのは、アメリカのインディアンがトルコ石は天を司るとして、トルコ石を代々受け継いでいったことに由来するといわれている。

ルビーの持つ血のような赤い色は、病気を治したり、命を活性化する力を持つと信じられ、古くはお守りとされていた。鑑別方法が確立されていなかった昔は、赤い石=ルビーと思われていた。

なお、日本では、ダイヤモンド、ルビー、サファイア、エメラルド、パール(真珠)が5大宝石といわれている。

<星座石>
 やぎ座 11/23~1/20 エメラルド、アクアマリン
 みずかめ座 1/21~2/19 サファイア
 うお座 2/20~3/20 ダイヤモンド、翡翠
 しし座 7/24~8/23 ルビー
 おとめ座 8/24~9/23 トルコ石

<宝石と活字>
19世紀後半ごろから、イギリスでは、4.5ポイントサイズのフォント(活字)を「ダイヤモンド」。5ポイントサイズは、「パール」。5.5ポイントサイズは、「ルビー」。そして、6.5ポイントサイズは、「エメラルド」と呼んでいた。 日本の新聞社が、新聞記事で
振り仮名用に使用していたのが、7号サイズの活字であった。(7号サイズの活字は、5.5ポイントの大きさ。) その7号サイズの活字は、イギリスでは「ルビー」と呼ばれていたため、日本では、7号サイズの活字を「ルビ活字」と呼ぶようになった。

一度に女性の皆さんに、持っているダイヤモンドを見せて、と願ったことがあったが、結果はどうだったのか、記憶にない。大粒の豪華なものがなかったのかな。自分が買った記憶もないね。

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釈迦はヒマラヤ山麓に王子シッダールタとして生まれたが、29歳のとき、人生の苦悩からの解脱を求めて出家する。6年苦行の後、菩提樹下で瞑想に入り、苦悩の起こる原因と、その克服に関する理を悟って仏陀となった。その教えを要約すると次のようになるといわれている。

生きることは苦しみである。苦しみは欲望によって生じる。なぜなら我々が欲するものはすべて無常であり、変化し、滅びゆく運命にあるからである。そして我々に欲望が生じるのは、宇宙は無常であることに我々が無知であるからである。したがって仏陀の教えられた道を実践し、人生の無常さを自覚することによって欲望を克服するならば、悟りを開いて解脱することができる。こうして自我と欲望が鎮まって寂静となった状態を涅槃寂静という。

<苦諦> 人生は四苦(生老病死)という苦しみに満ちているという現実認識。なお四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を加えて八苦という。苦悩についての聖なる真理というのはこうだ。すなわち、誕生は苦悩であり、老は苦悩であり、病は苦悩であり、死は苦悩である。愛する者と別れることは苦悩であり、憎たらしい者に会うことは苦悩であり、欲しいものが手に入らないことは苦悩であり。要するに、人間の存在を構成するあらゆる物質的および精神的要素は苦悩である。

<集諦> 集というのは「集起」の略で「原因」という意味。人生の苦しみは人間の欲望に起因するという「原因の考察」。この世には何一つとして不変の実体を持つものはなく、すべては無常である。 とすれば欲望の対象もまた消えゆくものであるから、それは決して満されることはない。 このように苦悩は無常なものをわがものと思いこんで執着を抱くところに生ずる。したがって欲望に固執する者は永遠に苦悩を免れることはできないである。

<滅諦> 欲望を消滅させることによって苦しみは消え失せ、悟りの境地涅槃に達 することができるという「解決の提示」。

<道諦> 欲望を抑えて悟りに至るために必要となる修行の道という「具体的な解決法」。苦を滅する道は、苦から逃れようと努力することではなく、正しく物事を見る「正見」・正しく考え「正思」・正しく語り「正語」・正しく行為し「正行」・正しく生活し「正命」・正しく努力し「正精進」・正しく念じ「正念」・正しく心を決定させる「正定」の八つの道「八正道」にある。

人間というものは、「必ず移り変わるもの」を「永久に不変のもの」と錯覚し、無理な執着をつくりだすのだという。「人生は苦である。」と断定したことは決して悲観的・厭世的なものの見方を教えたわけではなく、「苦」そのものを直視し、心の表面でごまかすことなく一時の喜びや、楽しみは、いつかは消え失せ、その影には必ず「苦しみ」がつきまとうということを断ぜられた真意はここにある。現代生活に即していえば、酒や遊び等で一時逃れをせず、しっかりと「現実」を見すえて「苦」を正面から受け止め、その原因を見つめる態度が大事であるということ。このような時「諸行無常」の真理を悟り、今の苦しみは永遠のものでもないし、今の楽しみや喜びも永遠ではなく一時的なもので、これらの現象にとらわれない生活習慣をつけることが修行にほかならないのだろう。

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仏教にはキリスト教でいう「聖書」のような、信者全員が心のよりどころとする経典はない。キリスト教におけるイエスと同じく、仏教の教祖である仏陀(釈迦)も、本人の書いた経典が残っているわけではない。しかし、優れた思想家がその後数多く現われ、それぞれが仏陀の教えとされる言い伝えをもとに、各自の解釈でさまざまな仏典を書き残してきた。

仏教とキリスト教とを比べて、両者の本質を次のように整理できるのだろうか。

仏教は、人が幸せに生きるための智慧と慈悲を基本に説いた教え。智慧とは「般若心経」で有名な「六波羅蜜」のひとつ:布施波羅蜜(人に物やお金等を分け与えること)、持戒波羅蜜(戒律をもって生きること)、忍辱波羅蜜(耐え忍ぶこと)、精進波羅蜜(努力すること)、禅定波羅蜜(座禅すること)、智慧波羅蜜(これら5つの波羅蜜の実践によって得られる智慧のこと)。また、慈悲とは、すべての人々に深い愛情をもち、安楽を与えるという意味の「慈」と、悩める人の苦しくを取り除いて、思いやることを意味する「悲」のことだ。「慈悲」と「智慧」との相乗効果によって私たちを「涅槃」(幸せの境地)へと導いてくれる。

一方、キリスト教は「神の愛」を解いた教え。キリスト教では、神とは人間をはるかに超越した、大いなる存在。神の前ではすべての人は平等であり、罪深い存在だ。そしてその罪は、神の愛によって救われる、という。

どちらも、どんな人にも救いの手を差し伸べている、という点で共通している。

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そういえば、都内でオペラ 「ラ・ボエーム」 を見てきた。途中2回の休憩が挟み、計2時間50分の上演だった。

<物語>
1830年頃のパリ。屋根裏部屋で貧しいながらも楽しい共同生活を送っている詩人ロドルフォ、画家マルチェッロ、哲学者コッリーネ、音楽家ショナールらはクリスマス・イヴぐらい外で楽しもうと出かけることになったが、ひとり残るロドルフォ。そこへ階下に住むお針子のミミがろうそくの火を借りに来て2人の間に淡い恋が芽生え、意気投合した2人が夜の街へ。

カフェに全員が集まったところに、マルチェッロのかつての恋人ムゼッタがパトロンとともに現れる。ムゼッタは「私が街を歩くと」を歌い、マルチェッロの気を引こうとする。結局ムゼッタは、パトロンを離れマルチェッロとよりを戻す。

2ヶ月後の雪の降る日、日増しに胸の病気が悪くなるミミ、彼女に何もしてやれない自分を責めて酒びたりのロドルフォ。ミミは迷惑をかけまいと静かに別れを告げる。あいかわらず浮気なムゼッタとマルチェッロも激しい口論の末、別れる。

それから時がたち、4人がもとの共同生活に戻っているところへ、ムゼッタが瀕死のミミを連れてやってくる。ミミはロドルフォのことが忘れられず戻って来たのだという。皆は恋人たちを気づかうが、ミミは誰にも気付かれずひっそいと息をひきとってしまう。ロドルフォは、その名を叫びながらミミの亡骸を抱きしめて号泣するのだった。</物語>

オペラの魅力はなんといってもすべてが「生」の一言に尽きる。まだ電気が発明されなかった17世紀初頭にオペラが誕生した。マイクロフォンはおろか、劇場の照明すらない時代の上演だった。俳優の声を観客に届かせるためにあらゆる工夫がなされ、すり鉢状の円形劇場の形もそのひとつ。音響機器が発達した現在でも、ホールでは生の歌声で上演するのがオペラの特徴。歌手たちは、増幅しない生の声だけで数百人の観衆を魅了しなくてはならず、数時間の長い上演時間を持ちこたえなくてはならないので、身体と精神力の極限を追求しているのはオペラだといわれている。その上、数十人によるオーケストラーの演奏も見物。歌唱も演奏も指揮者ひとりでまとめるところがすごい。劇場に自動販売機がないことも、すべて古くからあるヨーロッパの貴族文化の踏襲であろう。

生産性を度外視、生の人間が生の歌声で昔のまま演出するところ、つまり、進歩のないところがオペラの価値だといえるかも知れない。

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旧暦8月15日、中国の伝統では中秋の日。春節につぐ大節句、十五夜に月を祀り、また秋の収穫を祝って地の神様を祀る。

この時期の満月は一年の中で最も丸く、最も美しいとされている。満月の丸い形は円満、完全等の意味から、家族の団欒や、遠方にいる親友や恋人、自分の故郷に思いを寄せる日になっている。

中秋の思い出はあまり記憶にないが、小さい頃、この季節になるといつも大きな月餅を食べていた。中国南方と北方とでは、当時では月餅のつくりは全く違う。南方のそれに色々な具が入っていて、柔らかく総じてとても甘い。カロリーの足りなかった時代だから、そうなってたかも知れないが、今では甘いものは遠慮されると聞く。

毎年、この季節になると家族や親友が祝ってくれる。数十年も経ったのに、いつも覚えてくれて、ホントに感激。忙しい日々に、昔の甘さを思い起こす時があって良かったと思う。逢えたら、いつものように語り合い、いつものように笑おう。

元気でいよう、いつまでも。

李白  静夜思

牀前明月光
疑是地上霜
挙頭望明月
低頭思故郷

牀前月光を看る
疑うらくは是地上の霜かと
頭を挙げて山月を望み
頭をたれて故郷を思う

I saw the moonlight before my couch
And wondered if it were not the frost on the ground
I raised my head and looked out on the mountain moon
I bowed my head and thought of my far-off home

静かな夜、白く光る月。異郷にいる人々が、故郷に思いを馳せるときによく用いるフレーズ。幾千年もの間、望郷の念が詩人たちに繰り返し詠われ、なかでも偉大な詩人李白(701?762年)の「静夜思」は、人々に最も愛吟される一首。