高齢にもかかわらず、自ら強い意志を持って天皇陛下がパラオで戦没者の慰霊碑に供花した。いまの世のなかの不穏に対し、戦争の悲惨さを忘れないようにと一生懸命伝えようとした。

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当時のパラオ防衛になんと14師団(照兵団)が主役だった。14師団司令部はいまの栃木病院。宇都宮が駐屯地だったわけだ。中国との戦争時に満州のチチハルが第2の駐屯地。宇都宮市がそれでチチハル市と友好都市を結んでいる。

その後、パラオを含みた絶対国防圏を防御するため、14師団がチチハルから南方に転用、そこで散った。1万人以上の犠牲を出し、悲惨な記憶しか残っていないせいか、パラオと友好都市は結んでいない。

以下は「宇都宮第14師団 野砲兵第20連隊之碑」に刻まれた内容。宇都宮の護国神社にいまでも建っている。

野砲兵第二十連隊は明治三十八年満洲で創立凱旋後第十四師団砲兵として宇都宮に駐屯し茨城・栃木・群馬・長野四県より選ばれた壮丁で構成。昭和十五年三十余年練武の地宇都宮からチチハルに移駐し関東軍の中核としてソ連軍の侵攻に備えた。昭和十九年二月師団に動員下令。島嶼作戦に適応した編成装備に改変し、水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊に砲兵各一ケ大隊を配属 高崎第十五連隊には個々に転属、編成外人員は全員他部隊に転出、馬匹はチチハルに残置し連隊は栄光に満ちた四十年の歴史を閉じた。三月大連出航、制空制海権共になき海域を奇跡的に無事パラオ到着。本島に照集団司令部 歩十五連隊主力等を置き歩二連隊をペリリュー島、歩五十九連隊をアンガウル島に配備、硬いさんご礁に苦しみながら陣地構築に励んだ。七月二十日歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。九月六日機動部隊来襲パ・ア両島を猛爆艦砲射撃も加え連日続行された。米戦史によれば上陸前三日間に十七万トンの砲爆弾を使用し島形変じ地上物件すべて飛散した。九月十五日中川州男守備隊長以下一万の守備するペ島に上陸開始、大隊長小林与平中佐・常持良二大尉・天童隆大尉・大橋栄一大尉率いる各中隊の砲兵は第一波の海兵隊を猛射千名に壊滅的打撃を与え緒戦は勝利したが装備物量の差に加え四倍の敵に対し複郭陣地に依り抗戦、九月二十三日歩十五連隊は砲兵より転属した新井道彦大尉以下五九名を含む飯田大隊の逆上陸救援作戦も効果なく軍旗を奉焼して十一月二十四日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕した。ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。ア島には九月十七日来襲、後藤丑男守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し配属砲兵中隊長芝崎省三郎大尉以下一九七名高射機関砲隊柏原中尉以下三〇名も一致団結よく敢闘したが十月十九日玉砕せるものと推察される。本島の近藤大隊・丸山・谷口両中隊では飢餓との戦いにより三三名・砲兵団神山大隊・小宮山中隊他三ケ中隊で六二名の犠牲を生じた。遠い南海の孤島で家族の安泰と祖国日本の弥栄を念じつゝ激闘の末若い尊い命を捧げた亡き戦友達の霊を慰め其の業績を永く後世に伝えるべく遺家族・戦友の有志相集い深い感謝を込めここに慰霊碑を建立し御霊の安穏を祈念し奉る。

平成十九年十月 建之

三日前の9月27日お昼11時53分、長野県と岐阜県にまたがる御嶽山(おんたけさん、高さ3067m)が噴火した。水蒸気爆発だったらしい。秋の登山シーズンとあって、多くの登山者が遭難したようだ。

180枚上る写真が国土地理院から公開された。写真から、いまだ水蒸気が噴出している模様がわかる。自分が御嶽山を登った経験はないが、Google Earth上に公開された写真をみると、水を溜まった池が山に数箇所あるようだ。火山という証拠か。植物が全く育たないことも火山の特徴。

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ここ宇都宮までの距離はGoogle Earthを使って測ったら約230キロ。爆発の影響を全く受けていない。

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ところで、漢字の山名を見た瞬間、地獄のようだと感じた。広島の土石流のこともあって、最近、古来からの地名変更はやめようということが話題になった。先人が名前を通じて、多くのことを後世のわれわれに伝えようということらしい。池、川、湿原、山、火山等、多くの地理的特徴が確かに地名からわかる。ここの町名に「泉」という文字がつくが、どこかに本当に泉があったのかもしれない。峰町や、東峰町に住む年配者の話によると、確かに昔そこは山道があって、丘があった。平原地になったいまではその面影は全く見つけられない。

それにしても、日本はどこに住んでも自然災害が起きるものだ。県内にも活火山が数個あり、代表的なのは日光白根山(にっこうしらねさん、2578m)と那須茶臼岳(なすちゃうすだけ、1915m)の2つ。ここからの距離は53キロと60キロ。

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ついでに、日光白根山と那須茶臼丘の写真を出しておく。

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自然災害が日本人の性格や習慣・文化を規定する大事な要素のひとつ。いつか、それについて話そう。

宗教に熱中するひとが増えたらしい。伝道師が150年前にも上海に進出したので、有名な教会が多い。

徐家匯。徐家匯聖イグナチオ大聖堂。1851年に建設し始めたとか。

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外灘バンド。聖三一堂。1847年に建てられたとか。

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西蔵中路。沐恩堂(メモリアル・チャーチ)。1887年竣工。

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あちこちで撮ったものから、とくに印象に残ったのを選び出した。

華東師範大学のグランドから。上海の大学が観光客や市民にも開放されていて、憩いの場として素敵ではないか。

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誰もが知る南京路の一コマ。100年前の建造物と新築が並ぶところが上海の魅力だろう。

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和平飯店(Peace Hotel)内の日常。60年前の伝統がいまも受け継がれている。上海人のロマンや、欧米流への憧れが根強いものだ。

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博覧会で有名になった建築物。中国の伝統か、そんなバランスの悪いもので?

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田舎の浦東で見かけた風景。高級住宅群だという。居心地が悪くないか。だって、出入りは自転車じゃ格好わるいし、徒歩だとドロボーと間違われる。

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日本は点で観光地を形成するのに対して、租界地だった上海は欧米流に従い、線であるストリートが観光地をなしている。とくに、この淮海路は、上海では高級品の販売で有名、価格は他店より断然高い。貧乏人に用なしという趣だろう。

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理工系大学としては、清華大学についで、中国では2番めだといわれている。自分の母校(といっても卒業したわけではない)なので、キャンパスに入ると懐かしく愛しく感じた。所在地が全く変わったけど。

キャンパスの広さや、美景といったハードな面は、日本の国立大学を大きく引き離した。何しろ、キャンパス内に無料バスが15分おきに運行されているから。歩くだけでも疲れる。南北東西、それぞれ2キロあるとか。

競争がまた激しい。友人が敗れて教授職を辞職、日本ではありえないこと。中国の悪口は相変わらず新聞等で賑わっているが、真剣に中国を研究しないとダメな時期ではないか。もう遅いけど。

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上海黄浦江董家渡,旧时是有名的穷地方。文革时夏天热,没事干,孩子们就偷偷摸摸地去江里游泳。港务局等到他们游到江中心,开快艇抓,让他们上船在甲板上跳舞。大太阳下的甲板滚烫,不跳舞能站得住吗?

岸边当时有很多小船,里面还有住家。这条船跳到那条船,不会游泳的可以这样玩。

小孩冒险,大人取乐,每天就这样打发时间,没人会想到去赚钱。文革对干部是残酷的,对孩子是快乐的,不用读书嘛。

摆渡6分钱来回,浦西上船时淘钱,浦东回来时白上。大人曰,乡下佬没钱。原来浦东是乡下佬居住的地方,呵呵。

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南京路に面していたとは知らなかった。中国人がそんなにゴールドが好きかしら。昔のままのほうが良かったのではないか。毛沢東の故居があったことも知らなかった。

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