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疲れきったのかな、頭が回転しなくなっている。いつものパターンだと、そういう時には仮眠を10分間も取れば、元気になったりするものだが、いまはそうもいかない。

← 岩手県宮古の浄土浜。懐かしい風景。

最近、「道家」思想の代表、荘子の作品に、すごく興味を持つようになった。しかし彼の難解の文章は、私のような凡人に一生かけても理解できないだろう。

<大宗師篇>
自然の営みを認識し、人間の営みを認識したものは、人知の最高である。自然の営みを認識するものは、自然のままにして生きていくし、人間の営みを認識するものは、自分の知能で認識したことによって、その知能の及ばないところを補い育てていく。このようにして、その天寿を全うして途中で若死にしないのが、人知のすぐれたものである。

昔の真人は、逆境のときでもむりに逆らわず、栄達のときでも格別勇み立たず、万事をあるがままに任せて、思慮をめぐらせることがなかった。生を悦ぶということを知らないし、死を憎むということも知らなかった。その有様は、高々としているが崩れることがなく、何か足りないように見えるが、全く充実している。のびのびとして孤独でいるが頑固でなく、大げさでいてとらえどころがないが、浮ついてはいない。

死があり、生があるのは、運命である。あの夜と朝との決まりがあるのは、自然である。このように、人間の力ではどうすることもできない点のあるのが、すべての万物の真相である。

そもそも自然は、我々を、大地の上にのせるために肉体を与え、我々を労働させるために生を与え、我々を安楽にさせるために老年をもたらし、我々を休息させるために死をもたらすのである。だから、自分の生を善しと認めることは、つまりは、自分の死をも善しとしたことになるのである。

三日経ってから、この世界を忘れることができるようになった。七日経ってから、万物の存在を忘れることができるようになった。九日経ってから、自分の生きているのを忘れることができるようになった。
</大宗師篇>

全篇は人間の生きることに対する教えだと思う。最高の知性とは、自然と人間の精神世界を共に理解し、天寿を全うものだ。自分の置かれた状況をそのまま受け入れ、物事のリズムにそのまま任せ、自分の力ではどうにもならないことを認識し、生も死もよしと思わないといけない。そうすれば、無の極地に到達できる。そういう教えなのだろうか。

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知るひとぞ知る有名なサイト — 北岡明佳の錯視のページ

われわれは目や耳等を使って自分のまわりの状況を知覚している。あまりにもたやすく当たり前なので、普段、気にとめることもないが、時には現実の情報を正しく受け取れないことがある。正常な状態の人が見たり聞いたりした情報が、理性的に間違っていると自分で判っていても、なおそのように間違って知覚される現象を錯覚という。

目で見たときに起きる錯覚は錯視という。形や大きさが正しく見えなかったり、明暗、色、運動等が現実と違ってみえる。聴覚でも、ないはずの音が聞こえたり、音の大きさ、高さ、位置等が現実と違って聞こえる。また、今見たり、聞いたりしている情報についての錯覚だけでなく、影響が残り、その後の知覚が変わってしまう残効というのもある。さらに、視覚と聴覚が互いに影響し合って生じる錯覚もある。

そういうことで、われわれの五感が割りと簡単に騙される。しかも、その錯覚は脳で起こると考えられている。脳のなかで事実と違うことを認識いているだろう。錯覚の研究は色々行われているが、究明するまではまだまだ時間がかかりそう。調べれば調べるほど複雑怪奇で、どこから手をつけてよいかわからないからそうだ。しかし錯視の全くない人が回りにいてびっくり。その部分の脳の働きがどうなってるだろう。すごく不思議、なかを見てみたい気がした。

理性的に判っていて錯覚だと認識していれば大きな問題にならないが、本人が自覚していない錯覚がいっぱいあるかもしれない。気をつけないといけないね。

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共依存という言葉がある。他人に依存して、自分よりもその人のほうに意識が向いてしまう。その人を立ち直らせようとしたり、その人に頼られることで満足感を得たり、自分の感情がその人によって決められてしまうタイプの人をいう。依存症者と共に生活する人にとって、この状態は少なからずとも、必ず起きるものだと言われている。

これだけでは問題の深刻さに気づかないかもしれないが、例えば、アルコール依存症やギャンブル依存症、暴力、買物中毒、等の人がそばにいるとする。その配偶者、恋人、あるいは家族ならどうする?

多くの場合、もう少し我慢すれば立ち直ってくれると思い、自己犠牲して助けたり、世話したりする。不良息子や飲んだくれ亭主に必死に働いてお金をあげたり、本人達の不始末を代わりに謝ったりする。長い目で見るとそのひとや自分を破滅に導いていることに気がつかない。結果的に依存症のそのひとがますますエスカレートしていく。

つまり、依存症のひとが周りに依存できるひとがいなければ、多くの場合、経済的制約や、社会的制裁を受け、そのままエスカレートすることはないのに、共依存によって、病気がますます酷くなっていく。

こういった現在社会に広く存在する病理に有効な手立てはなかなかないのが現状。家族ならともかく、恋人や友達なら、勇気をもって依存症の人から離れよう。勿論、冷静に事情を見守り、その人が変わるかどうかを見極めることも大事。

結局、何よりも自分を一番大切に思うこと。湧き上がってくる自分の心の痛みや苦しみを軽視せず、素直に認めてあげよう。自分の失敗を認め、勇気をもって新しい人生を再スタートさせよう。他人を変えることは難しいし、その人でないといけないことはまずない。一番大事なのはやはり自分なのよ。

自己犠牲はしたい人がすればいい。

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悲観論者、悪いことばかり考え、自分の人生が不幸だと思うひとのことをペシミストという。

話を聞いて欲しいという気持ちだろうけど、グチるひとが最近多くなったような気がする。周りの環境や友達、あるいは家族のことでグチをこぼす。当人にはストレス発散になり、心の健康を保つのにいいことだろうけど、聞く側は注意しないと、自分まで暗い気分に落ち込み、やる気をなくし、憂鬱になってしまうので、注意が必要。とくに男性が聞く側の場合、解決してあげなきゃと思い、熱くアドバイスしたり、いろいろ行動しがちだ。しかし、グチなので、今度はまた同じグチか違うグチが聞かれ、疲れてしまう。

グチる心理にいろいろなタイプがあるが、ひとつは被保護欲求といって、頼れると思えるひとに対し、心身ともにすり寄ろうとする心理。内向的なひとよりも外交的なひとによく見られるという。つまり、問題を解決してもらうというよりも、意識的にあるいは無意識的に、相手との距離を縮め、話を聞いてもらうひとつの手段と考えてるようだ。だから、ちゃんと聞いてあげればそれでいい。聞くときは真剣に、聞いた後はすぐに忘れる、それが聞く側に求められることかもしれない。

グチをあまり言わないひとに、楽観派や、周りにつねに感謝の気持ちをもつタイプが多い。現状満足というか、問題を感じたらすぐ行動に移すひとが多い。自分に自信をもつようになれば、グチることも少なくなるだろう。楽しいことを多く考えれば、人生も楽しく豊かになれる。周りを感謝の気持ちでみると、素敵に見えることが多くなる。

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奇抜なアイデアに気づき、面白いネットゲームをつくった。

それをどこかのゲームソフトハウスに売り込みたい。最も条件のいい会社を探し出し契約し、お金持ちになりたい。

ところが、一番条件のいい会社を探すことが、実はなかなかの難問。ゲームの価値は会社が売ってみないと解らないかもしれないし、会社側の担当者それぞれが違う判断基準をもっている。こちらとしては真価より低い条件では嫌だし、かといって贅沢をいいすぎると、どこからも相手にされなくなる危険性もある。

その上、交渉相手の会社と条件が折り合わず決裂したら、2度と交渉できなくなる。契約してしまえば、さらにほかの会社と交渉することはできない。ただ道義上、同時に複数の会社と交渉してはいけない。

交渉できる会社が10社あるだけど、さて、どのような作戦で交渉をスタートすればいいだろう。

1番目の会社が提示してくれた条件が良さそうなので、そこと契約して終わらせる?
いや、どんないい条件でも、契約は見送り、ほかの会社の評価を見てみたほうがいいかな。だって、会社はバカじゃないし、いきなりいい条件を出してくれたのは、もしかしてホントに凄い作品なのかもしれないからね。

この問題、職探しや恋人探しと似てるよね。ただ、ふつう二股とか三股をかけたりするかもしれないが、簡単化するため、ここでは敢えて二股禁止にしたが、本質は一緒。とにかく、人生ではよく遭遇することなので、普遍性あり、面白い。一度真剣に考えれば損することはないよ。

どう交渉すればいい? 迷うなぁ。

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知りたい、とっても。なぜ人々が感動するのか。法則があるらしい。脚本家や小説家達がそれに沿って、作品を創り上げるだそうだ。ホントかな。

辞書では、深く物に感じて心が動かされること、との説明。どういう状態だと心が動かされるか、については私には判らないが、すくなくとも感じないといけない、それは良くわかる。

「愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。美の対極にあるのは醜さではない。無関心である。知の対極にあるのは無知ではない。それもまた無関心である。平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。生の対極にあるのは死ではない。無関心、生と死に対する無関心である。(エリ・ヴィーゼル・ふたつの世界大戦を超えて)」
という言葉通り、全く興味がなければ、感動なんかありえない。だから、感動の最低条件は共感され、引き付けられるものでないといけないことなのだろう。

ただ、関心があるだけでは感動するとは限らない。感動まで昇華するにはどこが違うだろう。

ネット上に、ディズニーの法則というのがあって、ヒントになるかもしれないので、メモしておく。

  • 感動すれば、人はもう一度そこへ来たくなる — だから、ディズニーでは、ゲストに「本当に夢の国にきた」と思ってもらうために、金と労力を惜しまない。
  • ゲストに感動を与えるために、キャストが担当する役割=キャストはゲストとのコミュニケーションで感動を与えること — お迎えする側の人間(キャスト)がパーク(ステージ=舞台)でショウを見せる。言葉と行動ですべてのキャストがゲストに歩み寄る。
    ゲストに感動を与えるために、モノが担当する役割=夢の国と思ってもらうために完璧な環境を整備すること –完璧な環境づくりには大変なお金がかかる、それでもお金をかける。遊園地ではない、ここは劇場だ。現実的な姿や「にせものとわかるもの」は絶対に見せない。
  • 夢の国に絶対にあってはいけないもの=それはゴミだ。夢の国にはゴミはない — そのために、600人のカストーリアルを使って15分に1度掃除をする。

要するに、にせものを本物らしくみせること? 確かに、実体験で感動することもあるけれど、現在社会では圧倒的に活字や映像による感動が多い。それらを本物と実感できることが大事だね。真実に感動あり、ということだろうか。

さて、社会現象になっている「冬のソナタ」にはまったひとがなぜ多いだろう。中高年が多いが、若い女性ファンも少なくない。

そのドラマに、何か「琴線」に触れるものがあるという。主役の男性に、理想と思われる「強さと優しさ」がある。女性をありのままに受け止めて、その悩みに共鳴し、成長していく女性を受け止める「器の大きさ」が感じられる。そして、自分の言葉を持っている。日本の男性は女性に対する言葉が少なく、何を考えているのか分からないのに対し、冬ソナの男性は自分の気持ちを表現する豊かな言葉を持っているらしい。

さらに、清楚で魅力的な女優に心が打たれるひとも多い。死んでしまった高校時代の淡い恋の相手を未だに忘れられないまま、一生懸命仕事をしている姿に、現実離れのある種の恋人としての理想像が成り立つのだろう。

そうした2人を巡る恋愛模様、家族の物語が、美しい風景と美しいテーマ曲をバックに展開され、最近の日本のドラマにない、ディズニー的「メルヘン」なのかもしれない。琴線に触れた人には「中毒」になる媚薬が多く揃っているドラマのようだ。

そこから感動の法則が導き出されるのだろうか。