友達とはなんだろう。

「一緒だと毎日楽しいひと」
「何でも話せる、助け合える、分かり合えるひと」
「悲しいときに励ましてくれる大事な存在」
「やっぱり昔のことを気楽に話せる古い友達が一番」
「いくつになっても支えたり支えられたりするひと」
「手紙だけの友人だが、便りをもらうだけで幸せな気分になる」
「一度も会わずに50年文通を続け、若い頃からいかに生きるべきかなど本音を語り合ってきた」

等など、新聞のローカル版に紹介されている。

なんとなく判るようだけど、取りあえず手元の広辞苑で意味を調べてみた。友達だけでなく、ほかの言葉とも一緒に。
 「友達」 親しく交わっている人。とも。友人。朋友。
 「親友」 信頼できる親しい友。仲のよい友人。
 「恋人」 恋しく思う相手。 ← それでは意味が判らないので、恋しいを調べる
 「恋しい」 離れている人がどうしようもなく慕わしくて、せつないほどに心ひかれるさま。

ネットで調べたら、男女のつきあいに、次の5タイプがあるという。
 1 日常的なただのつきあい
 2 仕事でのつきあい(役割関係)
 3 遊びのつきあい レクリエーション
   レクリエーションづきあいに比べて、恋愛は、やりとりする感情や話の種類が多様。
 4 裏のあるつきあい 下心、別の目的がある
   「何かを埋めるための恋愛」は長続きしない。
 5 本音と本音でつきあう純粋な恋愛
   気疲れしない、気づまりでない関係。自分と相手を受容する。心理的防衛をしない。

個人の見方では、友達、正確には親友とは、何でも気楽に話せて、分かり合えるひとのことだが、それ以上でもなく、それ以下でもなく、微妙な関係にいる人たちのことかな。

同性ならともかく、異性と長期間親友であるには、互いに心の距離をいかにバランスよく保つかは重要だし、たいへん難しい。年齢のハードル、距離のハードル、上下関係のハードル等があったほうが結果的に親友として長くやっていけるかもしれない。親友と恋人、同じものと考えれば楽だけどね。

男性に、なんでも話せる友達がホントにすくないと言われているが、同一趣味を共有し、ひとりではあまり楽しめない、例えば、バイクのツーリング、登山等ひとりでは危険なものがあれば親友関係になりやすい。親友がいると楽しみが増えるし、数十年も付き合える友達がいるとその貴重さに感謝せずにいられない。

あなたにそういう親しい友達はいませんか。

嵐の中、なぜか古い帆船に乗っていた。
隣には小さな男の子と老婆がいて、私は男の子にこの船の行き先を聞いた。
「新しい大陸に行くんだよ」
と、男の子は答えた。
老婆の話を聞くと、この男の子はその大陸の統治者の血を引いており、今はこういう状況だが向こうに着いたらそれなりの待遇を受けられるそうだ。
老婆は男の子の事を「坊ちゃま」と呼ぶ。
そうか、確かに身なりはあまり綺麗でないが、そういう雰囲気があるし、笑い顔が可愛い。
しかし、しばらくして更に海は荒れ、船に乗っていた人々はみな一人残らず波に飲み込まれた。
・・・

気がつくと大都市に立っていた。
波に飲み込まれたのは気のせいだったのだろうか?
男の子と老婆も立っている。
中世の町並みを見せるこの都市には、真ん中に巨大な塔が立っていて雲の上まで続いている。
古いのか補修工事が行われていて、たくさんの人が労働に従事している。
しかし彼らを良く見ると人ではなく
動物の頭を持った獣人で、うなだれて仕事をしている。
「僕はあの塔に登りたいんだ。手伝ってよ」
男の子はそう言った。しかし人間が登れるような塔に見えない。
遠くから見ると天から一筋の糸が垂れているようにも見える。
「私からもお願いします」
老婆にも頼まれ、私はその子を背負うと、心の中で
空を飛ぶ事を願った。あの塔の中腹まで送り届ければもしかすると登りきれるかも。
少しずつ浮遊感が生まれて、少しだけ宙に浮いた。
もっと飛びたいのだが、なぜか途中で止まっている。
ふと振り向くと、あなたがそこにいて、見た事もない険しい顔で
「行っては駄目だ!」
と叫んでいる。
・・・

私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗(しや)かなんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。

ともすると、弱々しげな手付けをして、
しきりと 手真似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あはれげな 思ひをさせるばつかりでした。

手真似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、
古い影絵でも見てゐるやう—-
音はちつともしないのですし、
何は云つてるのかは、分りませんでした。

しろじろと身に月光を浴び、
あやしいもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりどこまでも、やさしさうなのでした。

涙湧く
城の塀乾きたり
風の吹く

丘を超え、野を渉り
憩ひなき
白き天使のみえ来ずや

あはれわれ死なんと欲す
あはれわれ生きむと欲す
あはれわれ、亡びたる過去のすべてに

涙湧く
み空の方より
風の吹く

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
   とにかく私は血を吐いた!・・・・・
おまへが情けをうけてくれないので、
   とにかく私はまゐつてしまつた・・・・・

それといふのも私が素直でなかつたからであるが、
   それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、
私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
   おまへもわたしを愛してゐたのだが・・・・・

おゝ! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
   いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい—-

ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
   そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてなゐのだ。

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本来、人間は独りでいると落ちつきなく不安になるものだ。その孤独を支えるのは、幼くしては、両親や兄弟とのふれあい、成人してからは、愛する人とのふれあいだと言われている。このようなふれあい、正確には、スキンシップが順調に進展していることが、我々の心を不安や孤独から守る、基本的条件だとい
う。

しかし実際には、このような人間関係に恵まれないことも多い。また人間はこのような生物的なふれあいを越えた、心のふれあいの世界を育んでいく可能性を持ち合わせている。心の糧を、家族からではなく、隣人同士で満たしあう人間愛こそが、我々の心を孤独から守り、健全な社会づくりに欠かせないものと言われている。

人間として最大の喜びの一つは、自分の気持ちをありのままに分かってくれ、共感してくれるひととの出会いにある。親は兄弟にも分かってもらえない気持ち、考え方、感じ方を、咎めたり、軽蔑することなく、理解してくれるひと。抱いた不安や恐れ、怒りや悲しみの感情に共感してくれるひと。そういうひとの存在によって、辛さや悩みに耐えていく力が増し、心が救われる。

共感といっても同情とは違う。同情の背後には自分よりも不幸な、自分よりも劣ったひとに対する、優越感や満足感が潜んでいる。この世に、同情してくれるひとは多いが、本当に共感してくれるひと、喜びを共にしてくれるひとは少ないのが残念なところだが。

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イギリスの認知神経科学者モリス博士は「水迷路」と呼ばれる記憶試験法を使い、まずプールにネズミを放して水を回避できる避難場所を覚えさせる。覚えたネズミに今度脳手術をし、記憶を人工的に消してしまう。ところが、記憶を失ったネズミは、新しい水迷路を訓練することによって、消してしまった記憶をしだいに取り戻したのだ。つまり、忘れる前と似た状況を作ることによって、記憶を呼び戻すことを見つけた。

記憶を呼び戻すきっかけのことを「プライミング」というらしい。失った記憶の多くはプライミングによって取り戻すことができるという。隣の部屋にやってきたものの、何しに来たのか、思い出せないときには、その場で考え込むのではなく、元の部屋に戻ってもう一度隣の部屋まで歩いてくると思い出す可能性が高くなるのだ。確かに、そんな経験は幾度もある。

忘却の原因について、減衰説と干渉説が存在する。減衰説とは、時間の経過とともに記憶が失われていくというもの、干渉説とは、ある記憶が他の記憶と干渉を起こすことによって記憶が失われていくという。モリス博士の発見は干渉説を支持するものだろうか。干渉によって記憶が失うと同様、近似作用によって記憶が蘇るのだろうか。

嫌な思い出を消すには干渉作用となる思い出を新たにつくればいいかもしれない。そういう必要性は私にあるのだろうか。

ところで、30年も40年も昔の記憶が事実なのか、幻なのか、確かめたくなるときってないだろうか。相手を捕まえて確かめるチャンスはあったけど、その時勇気は出なかった。全く覚えてないと言われたらショックだもの。最も遠い記憶は3歳のときのこと。お姉さんと遊んでた記憶。ただの幻なのだろうか。

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花は人語を解する、とよく言われる。「きれいだね」と、花にむかって呼びかけると、それに応えて花はますます美しくさくのだそうだ。私は花を育てる習慣を持っていないので、この目で実際に確かめてみたことはないけれど、似た経験は知っている。

ビールだ。ビールをグラスに注ぐ際、勢いあまって、つい多めに入れすぎてしまうことがままある。そんなときは、盛り上がった泡がグラスの縁にふるえ、溢れ出そうになる瞬間、気持ちを込めて「耐えるぞ」と声をかける。泡は必ず持ちこたえてくれる。

花と酒といえば、詩人李白の名高い七言絶句を思い出す。

両人対酌山花開

一杯一杯復一杯

我酔欲眠卿且去

明朝有意抱琴来

二人対酌すれば山花開く

一杯一杯また一杯

我酔って眠らんと欲す 卿且く去れ

明朝意有らば琴を抱きて来れ

花は人語を解し、酒は花語を解し、人は酒語を解す。おれは酔って眠くなったから、おまえはひとまず帰ってくれ。明日の朝その気があれば、琴を抱えて来てほしい。夢見心地で別れたのだから、穏やかに響く琴の音色で、目覚めさせてほしいのだろう。

人間もおなじ、言葉の魔法にかかりやすい。きれいだね、と褒めるときれいになるし、互いに好きだというとホントに好きになるものだ。もうだめだと考えると別れてしまう。スポーツ選手が自己暗示をかけないと負けてしまうのも周知の事実。言葉の力はすごい。

綺麗ですね。

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相手の顔を見ながらコミュニケーションできない分、ネット上のメッセージのやりとりは、過激になりやすく、互いに傷つくことも多い。こういうときに、一々反論したり、自分の正当性を主張したりするよりも、誤ることがよく効く薬だそうだ。とくに、早い段階での謝りが、その後の長いトラブルを防ぐことができるという。

ただし、謝ることができるには、心の余裕が必要。自分が愛されている、認められている、わかる人にはわかってもらえている、そんな余裕があって、はじめて、他人に謝ることができる。

しかし、人から非難されたり、反論されたときに、相手の言葉とこちらの精神状態によっては、しばしば心が傷ついてしまうことがある。心が傷つけば、心を守りたくなる。必死になって、自分の正しさを主張したりする。そして、メールのやり取りでは、相手の言葉のスミをつつくような言葉の応酬となって、ますます互いの心が傷つき、さらに激しい争いに発展することもあるだろう。

争いを防ぐためには、相手の心をなだめるだけではなく、自分の心の癒しが必要なときもある。戦うべき相手は、口論の相手ではなく、自分自身の心かも知れない。

過激な言葉をアメリカではフレーム(Flames 炎)という。あるひとのアドバイスによれば、「自分の言葉には慎重さを、相手の言葉には寛大さを心がけよう。火あぶりにあって非難されても、時間を置いて気持ちが落ち着き、相手を論破してやろういう誘惑に勝てるようになるまでには返信してはいけない」という。

謝ること、できるようにしたいね。

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大切なひとを失ったときには必ず一連の悲しみの変化があらわれる。これは決して病的反応ではなく正常な反応だと思う。しかし、悲しみが大きく、適切に処理されなければ、長期間に渡ってとてもつらいものになる。

悲しみについて、いくつかの研究がなされている。発病率や死亡率に及ぼす影響を示唆したものや、身体的な病気にかかりやすくなるだけでなく、精神的な病気にもかかりやすくなると指摘したものがある。

しかし悲しみは、そのときは大変つらいものだが、それを乗り越えたときには、大きな変化が生まれる。悲しみを乗り越えることは、決してそれを忘れることではなく、悲しむ前の自分に戻ることでもない。その経験を通してもっと強くなり、もっと優しくなれるものだ。大事なのは、悲しむことは悪いことではないこと。きちんと悲しい気持ちを表現することが、その後の変化に重要であることを知っておこう。

では、悲しみがなぜ起きるか。それを説明する理論としてJohn Bowlbyは愛着理論を唱えている。それによるとわれわれ人間には、他者と強い愛情の絆を結ぶ傾向にある。この愛着は、安心と安全の欲求から生まれるという。愛着行動は、子供や若者に最もよく見られ、その成長過程で愛着の相手から徐々に長期間離れていられるようになり、活動範囲も広げていく。しかし、その一方で愛着の相手に支持と安全を求めて戻ってくる。そしてこの絆が脅かされたり、切られたりしたとき、強い情緒反応を引き起こすとしている。すなわち、愛情の絆が強ければ強いほど、悲しみが大きくなる。悲しむということは、それだけ愛情の絆が深かったことを意味する。悲しみは、愛情のバロメーターといえるだろう。

悲しみを乗り越える方法は第1に事実を受容すること。第2に悲しみの苦痛を乗り越えること。つまり、つらい思いを心にとどめないで、涙を流すことが大切。第3に相手のいない環境に適応すること。第4に相手の居場所を心の中で再配置し、生活を続けること。

悲しい気持ちを心に抑制することなく、素直に涙することは、心のバランスを保つのに大事だと思われる。涙は心の安全弁とも言われているから。