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相手の顔を見ながらコミュニケーションできない分、ネット上のメッセージのやりとりは、過激になりやすく、互いに傷つくことも多い。こういうときに、一々反論したり、自分の正当性を主張したりするよりも、誤ることがよく効く薬だそうだ。とくに、早い段階での謝りが、その後の長いトラブルを防ぐことができるという。

ただし、謝ることができるには、心の余裕が必要。自分が愛されている、認められている、わかる人にはわかってもらえている、そんな余裕があって、はじめて、他人に謝ることができる。

しかし、人から非難されたり、反論されたときに、相手の言葉とこちらの精神状態によっては、しばしば心が傷ついてしまうことがある。心が傷つけば、心を守りたくなる。必死になって、自分の正しさを主張したりする。そして、メールのやり取りでは、相手の言葉のスミをつつくような言葉の応酬となって、ますます互いの心が傷つき、さらに激しい争いに発展することもあるだろう。

争いを防ぐためには、相手の心をなだめるだけではなく、自分の心の癒しが必要なときもある。戦うべき相手は、口論の相手ではなく、自分自身の心かも知れない。

過激な言葉をアメリカではフレーム(Flames 炎)という。あるひとのアドバイスによれば、「自分の言葉には慎重さを、相手の言葉には寛大さを心がけよう。火あぶりにあって非難されても、時間を置いて気持ちが落ち着き、相手を論破してやろういう誘惑に勝てるようになるまでには返信してはいけない」という。

謝ること、できるようにしたいね。

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50人ぐらいいる講演室に入って、雰囲気を柔らかくするため、いつも、誕生日の同じひとがいるかと聞く。時間が少々かかるが、1月、2月、… と聞いていき、同じ誕生月のひとにはさらに誕生日を聞いていく。10分ぐらいやれば結果が判ってくる。

同じ誕生日のひとのいる確率、どれぐらいだと思う?

驚くほど高い。全員誕生日が異なるとすると、以下の計算で簡単に答えが出る。

  365/365 x 364/365 x 363/365 x … x 316/365 = 0.0296 = 3.0%

つまり、誕生日のダブらない確率は3%しかなく、97%の確率でダブルことになる。縁でもなんでもないことだね。ついでに、10?100人までのダブル確率を計算しておくね。

 人数   ダブル確率   人数   ダブル確率 
10 11.7% 15 25.3%
20 41.1% 25 56.9%
30 70.6% 35 81.4%
40 89.1% 45 94.1%
50 97.0% 55 98.6%
60 99.4% 65 99.8%
70 99.9% 75 100.0%
80 100.0% 85 100.0%
90 100.0% 95 100.0%
100 100.0%    

60人以上の集団ならば、100%近くなってしまう。直感が当てにならない例だった。

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大切なひとを失ったときには必ず一連の悲しみの変化があらわれる。これは決して病的反応ではなく正常な反応だと思う。しかし、悲しみが大きく、適切に処理されなければ、長期間に渡ってとてもつらいものになる。

悲しみについて、いくつかの研究がなされている。発病率や死亡率に及ぼす影響を示唆したものや、身体的な病気にかかりやすくなるだけでなく、精神的な病気にもかかりやすくなると指摘したものがある。

しかし悲しみは、そのときは大変つらいものだが、それを乗り越えたときには、大きな変化が生まれる。悲しみを乗り越えることは、決してそれを忘れることではなく、悲しむ前の自分に戻ることでもない。その経験を通してもっと強くなり、もっと優しくなれるものだ。大事なのは、悲しむことは悪いことではないこと。きちんと悲しい気持ちを表現することが、その後の変化に重要であることを知っておこう。

では、悲しみがなぜ起きるか。それを説明する理論としてJohn Bowlbyは愛着理論を唱えている。それによるとわれわれ人間には、他者と強い愛情の絆を結ぶ傾向にある。この愛着は、安心と安全の欲求から生まれるという。愛着行動は、子供や若者に最もよく見られ、その成長過程で愛着の相手から徐々に長期間離れていられるようになり、活動範囲も広げていく。しかし、その一方で愛着の相手に支持と安全を求めて戻ってくる。そしてこの絆が脅かされたり、切られたりしたとき、強い情緒反応を引き起こすとしている。すなわち、愛情の絆が強ければ強いほど、悲しみが大きくなる。悲しむということは、それだけ愛情の絆が深かったことを意味する。悲しみは、愛情のバロメーターといえるだろう。

悲しみを乗り越える方法は第1に事実を受容すること。第2に悲しみの苦痛を乗り越えること。つまり、つらい思いを心にとどめないで、涙を流すことが大切。第3に相手のいない環境に適応すること。第4に相手の居場所を心の中で再配置し、生活を続けること。

悲しい気持ちを心に抑制することなく、素直に涙することは、心のバランスを保つのに大事だと思われる。涙は心の安全弁とも言われているから。

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大型複合商業施設 Bell Mall が先週の火曜日、10月5日、地元の宇都宮大学工学部近くのシンガー日鋼跡地にグランドオープンした。平日にも関わらず初日から連日大勢のひとが訪れた。

商業施設の中核となる西館は地下1階、地上3階建て。そこの専門店とイトーヨーカドーが出店している。つまり、西館の北側には、スポーツショップやファッション、生活雑貨、レストラン、カフェ、アミューズメント施設等117店舗の専門店と、南側にイトーヨーカドー内にある21店舗の専門店からなる。6月にオープンしていたシネマコンプレックス(TOHOシネマズ宇都宮)の東館と専用の通路で繋がれ、自由に行き来することができる。なお、駐車場は5000台。

特筆すべきのは、中央広場に鐘のメロディを演奏してくれる「カリヨン・ツリー」が設置され、季節ごとに変わる様々なジャンルの音楽、美しい音色で時刻を告げてくれる。さらに西館4ヶ所のゲートに、スウィング・ベルが設置され歓迎してくれる。それらの鐘は85鐘で世界一という。新たな宇都宮の名所、待ち合わせのスポットとなるかもしれない。

物欲のない私はまだ行ってないが、美味しいレストランで食事したいものだね。

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最近、大手スーパーダイエーの再建について、色々な対立がみられ、面白い。

UFJ等のメインバンクからの産業再生機構送りの期限付き脅しに対し、ダイエーの高木社長が臨時取締役会を開き、あくまで民間主導の自主再建路線を貫く姿勢を崩そうとしない。さらに、中川経済産業相がダイエーの判断を支持するのに対し、伊藤金融相は債権の買取り期限を理由にダイエー側に慎重な判断を促した。つまり、官vs官、官vs民、民vs民、という複雑な様相を呈している。

中内功氏が1957年、大阪市千林駅前に「主婦の店ダイエー」第1号店を創立して以来、「良い品物をどんどん安く」の安売り哲学をモットーに、規模拡大の積極経営で小売業界をリードし、戦後日本経済の発展とともに成り上がった。1964年東京進出。1970年売上1000億円突破。1972年東証一部上場。同年売上日本一を達成、三越百貨店を抜き業界最大手の座を手に入れた。1980年年間売上高1兆円突破。創立してから40年で、ローソンやプランタン銀座を手がけたほか、マルエツ、忠実屋、ハワイのアラモアナショッピングセンター、リクルート等の経営権も獲得。300社といわれるグループ企業をあわせると、総従業員数十万人、グループの総売上5兆円の一大流通帝国を築きあげた。中内功氏本人も、1990年経団連副会長、1993年日本チェーンストア協会会長に就任し、立志伝中の経営者と称えられた。

ところが、バブル経済の崩壊と共に、積極経営策が裏目に出始め、拡大路線による巨額の借入金と売上の伸び悩みによる経営危機が表面化した。1998年、上場以来初の経常赤字となり、無配に転落した。グループ全体で2兆6000億円の有利子負債の問題が露見し、経営難が深刻化したことになる。メインバンクによる金融支援を2度受けたが、再生の見通しはいまだにはっきりしない。

しかし、なぜいまこの時期にダイエーの再生が再び話題になるかというと、実はUFJの不良債権処理が根本にある。昨年の金融庁の検査のときに、他のメインバンク2行が5割の引当金を積んでいるのに対し、UFJだけが3割しか積んでいなかったといわれる。さらにUFJからダイエー関連の隠蔽資料が発覚。UFJは現在、トータルで4000億を超えるダイエー向け債権を抱えている。来年3月末までに、政府方針である不良債権半減処理目標を達成するためには、どうしてもこのダイエー向け債権を処理しなくてはならないのだ。つまり、「不良債権の半減」をめざす竹中路線のもとで、金融庁の圧力がUFJを追い込
んだ格好となっている。

ダイエーの再生を産業再生機構に委ねる場合、経営再建策が抜本的だと判断され、会計上「不良債権」でなくなる。しかし、ダイエーにとって、自主再建以上の大リストラを迫られ、経営が破壊されてしまう。逆に、産業再生機構を通じた再建策をとらなければ、ダイエーの債務者区分を要管理先から正常先に引き上げることを絶対に金融庁が認めないという。

国民にとって、再生に投入される税金が少ないほうが良いわけだが、多くの株主にとっては目の離せない攻防であろう。しかし、地元足利銀行破綻の教訓もあり、金融庁を甘く見てはいけない。最悪のケースを想定しておこう。

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そういえば、都内でオペラ 「ラ・ボエーム」 を見てきた。途中2回の休憩が挟み、計2時間50分の上演だった。

<物語>
1830年頃のパリ。屋根裏部屋で貧しいながらも楽しい共同生活を送っている詩人ロドルフォ、画家マルチェッロ、哲学者コッリーネ、音楽家ショナールらはクリスマス・イヴぐらい外で楽しもうと出かけることになったが、ひとり残るロドルフォ。そこへ階下に住むお針子のミミがろうそくの火を借りに来て2人の間に淡い恋が芽生え、意気投合した2人が夜の街へ。

カフェに全員が集まったところに、マルチェッロのかつての恋人ムゼッタがパトロンとともに現れる。ムゼッタは「私が街を歩くと」を歌い、マルチェッロの気を引こうとする。結局ムゼッタは、パトロンを離れマルチェッロとよりを戻す。

2ヶ月後の雪の降る日、日増しに胸の病気が悪くなるミミ、彼女に何もしてやれない自分を責めて酒びたりのロドルフォ。ミミは迷惑をかけまいと静かに別れを告げる。あいかわらず浮気なムゼッタとマルチェッロも激しい口論の末、別れる。

それから時がたち、4人がもとの共同生活に戻っているところへ、ムゼッタが瀕死のミミを連れてやってくる。ミミはロドルフォのことが忘れられず戻って来たのだという。皆は恋人たちを気づかうが、ミミは誰にも気付かれずひっそいと息をひきとってしまう。ロドルフォは、その名を叫びながらミミの亡骸を抱きしめて号泣するのだった。</物語>

オペラの魅力はなんといってもすべてが「生」の一言に尽きる。まだ電気が発明されなかった17世紀初頭にオペラが誕生した。マイクロフォンはおろか、劇場の照明すらない時代の上演だった。俳優の声を観客に届かせるためにあらゆる工夫がなされ、すり鉢状の円形劇場の形もそのひとつ。音響機器が発達した現在でも、ホールでは生の歌声で上演するのがオペラの特徴。歌手たちは、増幅しない生の声だけで数百人の観衆を魅了しなくてはならず、数時間の長い上演時間を持ちこたえなくてはならないので、身体と精神力の極限を追求しているのはオペラだといわれている。その上、数十人によるオーケストラーの演奏も見物。歌唱も演奏も指揮者ひとりでまとめるところがすごい。劇場に自動販売機がないことも、すべて古くからあるヨーロッパの貴族文化の踏襲であろう。

生産性を度外視、生の人間が生の歌声で昔のまま演出するところ、つまり、進歩のないところがオペラの価値だといえるかも知れない。

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疲れきったのかな、頭が回転しなくなっている。いつものパターンだと、そういう時には仮眠を10分間も取れば、元気になったりするものだが、いまはそうもいかない。

← 岩手県宮古の浄土浜。懐かしい風景。

最近、「道家」思想の代表、荘子の作品に、すごく興味を持つようになった。しかし彼の難解の文章は、私のような凡人に一生かけても理解できないだろう。

<大宗師篇>
自然の営みを認識し、人間の営みを認識したものは、人知の最高である。自然の営みを認識するものは、自然のままにして生きていくし、人間の営みを認識するものは、自分の知能で認識したことによって、その知能の及ばないところを補い育てていく。このようにして、その天寿を全うして途中で若死にしないのが、人知のすぐれたものである。

昔の真人は、逆境のときでもむりに逆らわず、栄達のときでも格別勇み立たず、万事をあるがままに任せて、思慮をめぐらせることがなかった。生を悦ぶということを知らないし、死を憎むということも知らなかった。その有様は、高々としているが崩れることがなく、何か足りないように見えるが、全く充実している。のびのびとして孤独でいるが頑固でなく、大げさでいてとらえどころがないが、浮ついてはいない。

死があり、生があるのは、運命である。あの夜と朝との決まりがあるのは、自然である。このように、人間の力ではどうすることもできない点のあるのが、すべての万物の真相である。

そもそも自然は、我々を、大地の上にのせるために肉体を与え、我々を労働させるために生を与え、我々を安楽にさせるために老年をもたらし、我々を休息させるために死をもたらすのである。だから、自分の生を善しと認めることは、つまりは、自分の死をも善しとしたことになるのである。

三日経ってから、この世界を忘れることができるようになった。七日経ってから、万物の存在を忘れることができるようになった。九日経ってから、自分の生きているのを忘れることができるようになった。
</大宗師篇>

全篇は人間の生きることに対する教えだと思う。最高の知性とは、自然と人間の精神世界を共に理解し、天寿を全うものだ。自分の置かれた状況をそのまま受け入れ、物事のリズムにそのまま任せ、自分の力ではどうにもならないことを認識し、生も死もよしと思わないといけない。そうすれば、無の極地に到達できる。そういう教えなのだろうか。

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知るひとぞ知る有名なサイト — 北岡明佳の錯視のページ

われわれは目や耳等を使って自分のまわりの状況を知覚している。あまりにもたやすく当たり前なので、普段、気にとめることもないが、時には現実の情報を正しく受け取れないことがある。正常な状態の人が見たり聞いたりした情報が、理性的に間違っていると自分で判っていても、なおそのように間違って知覚される現象を錯覚という。

目で見たときに起きる錯覚は錯視という。形や大きさが正しく見えなかったり、明暗、色、運動等が現実と違ってみえる。聴覚でも、ないはずの音が聞こえたり、音の大きさ、高さ、位置等が現実と違って聞こえる。また、今見たり、聞いたりしている情報についての錯覚だけでなく、影響が残り、その後の知覚が変わってしまう残効というのもある。さらに、視覚と聴覚が互いに影響し合って生じる錯覚もある。

そういうことで、われわれの五感が割りと簡単に騙される。しかも、その錯覚は脳で起こると考えられている。脳のなかで事実と違うことを認識いているだろう。錯覚の研究は色々行われているが、究明するまではまだまだ時間がかかりそう。調べれば調べるほど複雑怪奇で、どこから手をつけてよいかわからないからそうだ。しかし錯視の全くない人が回りにいてびっくり。その部分の脳の働きがどうなってるだろう。すごく不思議、なかを見てみたい気がした。

理性的に判っていて錯覚だと認識していれば大きな問題にならないが、本人が自覚していない錯覚がいっぱいあるかもしれない。気をつけないといけないね。

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社会現象になるほど、最近ブログはすごい勢いを見せている。コメント・トラックバック・RSSという技術を背景に、ごく普通のユーザでも気軽に情報発信できる。身近に起きた生の情報を、一個人がダイレクトに発表するという意味で、情報の民主化と考えて良さそう。

いままでは、現場があって、そこに記者等のプロがやってきて取材し、情報を作り出してわれわれのところに届く。ビジネスベースなので、情報の生成過程では、大衆の好みを想定したり、世論を誘導する方向で加工したりしてたかもしれない。しかしブログでは、個人ベースの、利益とはほとんど無関係に、本人の思ったことや、感じたことがそのまま流れるので、現場に近い生の声といえよう。そこに新しい可能性が潜んでいるように感じる。

例えば、クローズした環境で事件が起きたとする。当事者がいて、周りに多くの人がその場にいたとする。いままでの慣例では、事件についての報道がニュースやテレビにあるかもしれないが、プライバシーの配慮や社会的影響から、生の声を聞くことはほとんどなく、事件の真相を知ることも難しい。

しかしブログなら、当事者や現場にいた人たちがそれぞれの立場から事件を語るかもしれない。それを総合して判断すれば事件の真相に近つけることができるかもしれない。生の声が多くなれば、記者数人の取材よりも、圧倒的に情報量が多くなるだろう。

そうすれば、ネット時代の、生産側と消費者側の中間にある、卸業者さんの受難と同様、マスメディア産業の受難の時代が始まるかもしれない。「脅威があれば、戦争してもいい」というでたらめなことを平気で書く新聞なんかはゴミ箱ゆきになるだろう。

多種多様なブログ文化を整理、分類する技術が、これからは求められるだろう。Googleにもこういう動きがみられる。情報検索のニーズがますます強まる。

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共依存という言葉がある。他人に依存して、自分よりもその人のほうに意識が向いてしまう。その人を立ち直らせようとしたり、その人に頼られることで満足感を得たり、自分の感情がその人によって決められてしまうタイプの人をいう。依存症者と共に生活する人にとって、この状態は少なからずとも、必ず起きるものだと言われている。

これだけでは問題の深刻さに気づかないかもしれないが、例えば、アルコール依存症やギャンブル依存症、暴力、買物中毒、等の人がそばにいるとする。その配偶者、恋人、あるいは家族ならどうする?

多くの場合、もう少し我慢すれば立ち直ってくれると思い、自己犠牲して助けたり、世話したりする。不良息子や飲んだくれ亭主に必死に働いてお金をあげたり、本人達の不始末を代わりに謝ったりする。長い目で見るとそのひとや自分を破滅に導いていることに気がつかない。結果的に依存症のそのひとがますますエスカレートしていく。

つまり、依存症のひとが周りに依存できるひとがいなければ、多くの場合、経済的制約や、社会的制裁を受け、そのままエスカレートすることはないのに、共依存によって、病気がますます酷くなっていく。

こういった現在社会に広く存在する病理に有効な手立てはなかなかないのが現状。家族ならともかく、恋人や友達なら、勇気をもって依存症の人から離れよう。勿論、冷静に事情を見守り、その人が変わるかどうかを見極めることも大事。

結局、何よりも自分を一番大切に思うこと。湧き上がってくる自分の心の痛みや苦しみを軽視せず、素直に認めてあげよう。自分の失敗を認め、勇気をもって新しい人生を再スタートさせよう。他人を変えることは難しいし、その人でないといけないことはまずない。一番大事なのはやはり自分なのよ。

自己犠牲はしたい人がすればいい。