昭和19(1944)年発行『思想戦大学講座』収録の鹿子木員信(言論報国会理事長)論文「日本思想戦の神髄」というものの要約だそうです。戦前から終戦まで続いていた精神的部分に触れたもののような気がして、私個人のコメントなしに、史料としてメモしておきます。論文の原文はまだ手元にないのですが、機会をみて入手するつもり。

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「承詔必謹」は、日本臣道の第一義であると確信します。詔を聞かずに自分の判断で行動する者は、日本国民ではないと言わざるをえません。しかも、思想・学問という面から考えても、「承詔必謹」の原理は私どもの実践の原理であるのみならず、理論・教学の原理であることを明らかにしたいと思います。

私どもの学問研究の対象が感覚的自然科学である場合には、この研究方法は眼をもって鋭く見るということが第一です。しかも、近世自然科学の研究の根本方法は、よく見るということから一歩すすめまして、よく見たものをよく数える・測るということにあります。すなわち、近世自然科学の研究根本方法は、実験(よく見る)・実測(よく数え量る)にあるのです。

さて、では私どもの眼を外界自然の世界から、精神の世界・歴史の世界思想の世界に転じますと、私どもは眼をもってこれを見ることはもはや不可能になります。例えば歴史の世界は眼をもって見ることはできませんが、しかし、全ての精神諸学の内容とするところはこの見ることのできない歴史の世界に所在(誕生・発展)を持ちます。では、我々は歴史の世界やその中で行われる精神の行為をいかにして把握し、もって精神諸学を樹立することができるのでしょうか。それは言うまでもなく、聴くことによってです。幼児が成長していくにつれて外界自然を知るのは自分の眼によって見たことを他の感覚をもって補う(例えば、庭と縁側との間の高さは、まず眼で見て、這って落ち、痛いめにあうというように)からですが、戒しめやしつけといったような精神に関ることは、見てこれを知
るのではなく、親に聴いてこれを知るのです。この卑近な例をみてもわかります通り、私どもの歴史的・精神的世界に関する知識はすべてこれを聴くことによって体得するのです。

では、我々は誰に聴く時に正しい知識を学ぶことができるのか、誰の言うことに耳を傾ける時に正しい精神の学問を把握することができるのかという、重大な問題が起こってきます。子供の場合は、家の親の言うことを聴く時に、正しい知識を得、正しい道を歩くことができます。しかし、道で偶然会ったような者の誘惑に乗ってしまい、その甘言に聴従してしまうような時、その歩む道は危険極まりないものであることはすぐわかると思います。学校において、先生の教えを聴かず、悪友の誘いに聴従する時も同様です。

学校において先生の教えに従う時、正しい学びの道を歩むことができると言いましたが、しからば国民として国にあるその時、私どもは誰の教えに従う時に正しい精神諸学を体現できるのでしょうか。それは明らかに、万世一系の天津日嗣の天皇(すめらみこと)の教えに従う時であります。なぜならば、天皇こそ日本民族数千年の歴史的伝統の継承者と保持者であるのみならず、日本民族の悠久なる流れの真っただ中にいて、その全貌を見ることができるからです。

すなわち、日本民族のいのちの流れを横断するとしますと、その横断面の真っただ中にいるのが天皇であり、私ども日本国民は国民たる限り、中心を外れた周辺に散在するのです。しかし私どもはその性質上、常に自分を中心として対象を見、そして考えます。つまり、自分を中心に自分の叡智を半径として視野を描き、もって世界を見ているわけです。ですから、どんなに天才的に優れた叡智を持つ者であっても、横断面の中心を離れて偏在する以上、視野はおのずから偏ってしまうわけで、どうやっても日本民族の歴史的精神的生活の全貌を正しく見ることはできません。ではどうすれば、私どもも日本民族の精神世界に関する正しい認識を持つことができるでしょうか。それは私どもが、まず中心に参じ、中心の指導のもとに私どもの研究思索を錬成することです。

以上のように、すべての歴史的・精神的事行をその内容とする精神諸学は、その根本原理を「承詔必謹」に置きます時に、始めてその正確と完璧とを望めるわけです。これに対し、詔に従わず、むしろ自ら好むところに従って外国の他人の説に聴従するような時には、正しき精神の学問に到達する望みはないのです。こう言えば、「我々は自分に与えられた理性によって思索し哲学し、文化を鑑賞研究するものである」と反論する人があるかも知れませんが、しかし、かくのごとき合理主義者もしくは文化至上主義者のなすところを実際に検討すれば、私どもはこれらの人々の所説が、他人に聴従することに端を発することを発見できます。

例えば、「承詔必謹」の原理に真正面から挑戦するところのマルクス主義などは、その最もよい例です。日本国体の破壊という意図の下に宣伝され、書かれた、マルクス主義の思想を無自覚無批判に読む(すなわち著者の言葉を聴く)ことによって、始めて人はマルクス主義を信奉するようになります。あたかも、子供が親の教えを聴かず、路傍で偶然遭遇した人間の甘言に聴従することと、趣を同じくしています。

支那西洋等の外国におきましては、不幸にしてこの宇宙存在の中心より生へ抜ける一系無窮の「天津日嗣の伝統」を失ったのです。よってやむなく個々の賢哲が出て、暗中模索、人間の歩むべき道を指し示そうと試みました。かつての支那においては孔子、現代ドイツにおいてはヒトラーがあり、古ギリシャのピタゴラス、インドの釈迦、ナザレのイエスなどもその好例でしょう。これらの卓越した精神的指導者に聴従することによって、孔子の弟子になり、釈迦の徒となり、キリスト教徒となり、ヒトラーの信奉者になるのです。ですが、確かに孔子もイエスも釈迦もヒトラーも優秀抜群・叡智天分の人で、教えに見るべきものも多いのですが、未だ人間存在の全般にわたって正しい道を提示したとは言えないのです。しかし、天皇の勅こそ、こと精神に関する限り私どもの聴従すべき最高
の指針です。私どもが今日、教育勅語を日本教学根本の原理としている事実は、私が申し上げていることを実証しているに他なりません。そして、私どもは宣戦の大詔を胸に刻み、これを実践の原理とするにとどまらず、思想の基準として仰がねばならないと確信いたします。

この見地より大詔を奉載し、このたびの戦いを眺めます時、大東亜戦争が支那事変の連続的発展であることは、疑いの余地がありません。従って大東亜戦争勃発の根本原因は、遠く支那事変の起こるところにあるわけです。言い換えれば、支那事変の根本原因こそが、大東亜戦争の起こる所以であるのです。では、支那事変はいかにして起こったのか。昭和16年12月8日の宣戦の詔書や、昭和12年9月4日の勅語によれば支那事変の起こる所以は、中華民国政府が帝国の真意を解さなかったことにあったのです。翻って考えますと、皇国の国体に基づかない帝国の真意はないわけで、帝国の真意を解さずに事を構えた中華民国は、皇国の国体に挑戦してきたものと言わざるを得ません。

では、私どもは、中華民国政府がなぜ皇国の国体に向かって挑戦してきたのか考えねばなりません。当時の中華民国政府の実体は、いわゆる中国国民政府です。そして、中国国民政府の実体は、中国国民党の組織する「以党治国」の行政機関であったわけで、つまり中国国民政府の実体は中国国民党でありました。ではなぜ中国国民党が皇国の国体に基づく帝国の真意に挑戦してきたのでしょうか。中国国民党の指導精神は言うまでもなく三民主義です。中国国民党は、実はほかならぬ三民主義のゆえに、支那4億の民を駆りて皇国の国体に向かって挑戦するに至らしめたのです。ではなぜ三民主義は、その指導下にある中国国民党を駆ってあえて皇国の国体に挑戦してきたのでしょうか。それは、三民主義が自由主義的世界観の発露に他ならないからなのです。三民主義とは、民族主義・民権
主義・民生主義といういずれも「民」の字をもって始まる3つの主義の総称ですが、まず第一に、三民主義説くところのいわゆる民族主義なるものは、決して支那固有の伝統的民族精神を鼓舞作興するところの民族主義ではありません。むしろ、支那数千年の歴史的伝統的民族精神を抹殺し一掃し、これに代わって三民主義の民権主義・民生主義をもってするものなのです。無論、三民主義説くところの民権主義・民生主義が支那固有の思想でありますならば、その説くところの民族主義は本統の支那民族主義ですが、いかんせん、三民主義そのものが、民権主義について、近世欧米伝来の思想であって、支那固有の思想ではないことをことわっているのです。三民主義説くところの民権主義は、単純簡明なるデモクラシーにほかなりません。では、次の民生主義とはいかなる思想でしょうか。すべて
の解釈を抜きにして、三民主義そのものが天下に向かって叫ぶ言葉に聴従しますと、「民生主義はすなわち共産主義であり、社会主義でもある」というのです。これは三民主義自らが天下に呼号しているのですから、疑問の余地はないでしょう。しかし、中国国民政府は実際に共産主義を実施していません。なぜかというと、当時の支那国民経済の現状は、まだすぐに共産主義を実施するに至っていないというわけです。つまり、共産主義の重点は分配にあるわけですが分配が意味をなすには分配すべきものがなくてはならない。でも、今日の支那にはそれがないから、急務は分配の解決ではなく、生産の問題の解決である。で、生産に関する限り、資本主義経済こそ最も効果的であることは近世の歴史が教えている。というわけで、民生主義は実際の施策に関しては、資本主義を採用してきたわけです。

しかし、経済の実際の施策においては資本主義を採用する民生主義も、理論の面では終始一貫共産主義を理想目標としております。以上のことから、三民主義説くところの民生主義なるものは、実際的には資本主義理論的には共産主義という、両頭一体の思想体系にほかなりません。かくして三民主義の内容は、政治的には民主主義、経済的には実際は資本主義、理論上は共産主義という、自由主義的世界観の一体系にほかならないのです。なぜなら、民主主義といい資本主義といい共産主義といいいずれも自由主義的世界観の生み子にほかならないからです。

では、自由主義的世界観とは何でしょうか。自由主義とは読んで字のごとく、自らに由る主義のことでありまして、分かり易く言いますと、何をするにも「我」がまま勝手、すべて「我」がままに生きていくという生活態度のことです。これを実例をあげて申しますと、今日私どもは大戦を戦いつつありますが、聖戦完遂の必然かつ当然の結果として、3度の食事を2度に減らし、3枚重ねた衣を1枚に減らすなど、あらゆる面で極めて窮乏の生活を送らざるを得ません。この窮乏生活は、私どもがその「自」己によって感ずる限り、ひとつの苦痛です。「自己」を中心とし、「自己」を主として感ずる限り、これほどつらいことはないのです。これが、自由主義的に物を感ずる場合の一例です。さらに、このような窮乏生活の原因であるこの戦争こそ呪うべきものであり、一刻も早く中止すべ
きだと言って、和平を意図するような行為は、自由主義的に考え行動する好例です。

しかし、日本国民の大部分はこの戦に由来する窮乏生活などものともせずに、これを甘受しつつあります。あたかも山を愛する人が、高山の危険にその身をさらしながら、敢然とあらゆる危難に立ち向かい、むしろその中に無上の喜びを感ずるに似ています。

ただ、自由主義的生活態度といえども、もし一つの条件が真実であるならば、これは真理であると言わざるを得ません。その条件とは、我々は自らに由って生まれ、自らに由って在り、自らに由って行うものであるというものです。もしこれが真実ならば、自由主義的世界観は絶対の真理であると言わざるを得ないのです。もっと具体的に言うと、ひとが、親由り生まれるのではなくして自らに由って生まれ、親の海よりも深い恩愛に由ってはぐみ育たれるのではなくして自らに由ってはぐくみ育ちその日その日の勤めをつとめるのでも、上司・同僚・部下の協力なくして、自らによってその勤めをつとむるのであれば、確かに自由主義的世界観は真理なのです。しかし、そんなことはあり得ません。まさに、「自由」ではなくして「他由」こそ、人の人「間」たる面目を現せるものと言うべき
でしょう。

ですが、自由主義的世界観は、親を忘れ、君を忘れ、神を忘れて、天上天下唯我独尊を呼号し、傲然と自らの存在に主をもってするのです。そして、民は民主を称して君主の存在を容認せず、ついにこの存在を打倒するに至るのです。よって、民主主義的政治形態は実に自由主義的世界観の政治的表現と言えます。

さらに、自由主義的世界観をもって経済的行為をする時、その行為の目標が「利己」、すなわち利潤追求のみにあることは当然の帰結と言えるでしょう。この利己的傾向と近世機械技術の生産手段化とが結合する時莫大な富の生産は少数資本家に集中し、ここに近世資本主義経済組織の出現をみることができるのです。しかし、近世資本主義経済組織の成立は、少数資本家の経済的自由と同時に多数勤労者の経済的不自由という矛盾をかもしだすことになります。これは、自由主義的世界観に立つ限り、どうやっても否定できない矛盾です。これに対し、この矛盾を克服すべく、自由主義的世界観自ら案出した経済組織が、共産主義的経済組織なのです。以上のように、資本主義と共産主義はともに自由主義的世界観の生み子であり、一応の対立はあっても根元は同じでありまして、今日のドイツ全体主義世界観や日本の皇道世界観のような根元を異にする世界観に当面すると、資本主義国家と共産主義国家は相互に提携協力するのです。

さて、これまで述べてきたような自由主義的世界観と最も対立するものは、わが皇国の道です。皇祖皇宗の神霊を載く天皇に、忠誠勇武をもって仕える、一億国民の生命の団結を具現する思想である皇道世界観です。自由民主の国民はそれぞれ自由、自主をもってし、自分で自分に奉ずることを人間の面目であると信じていますが、私ども日本人はこれに反し親に仕え、天皇に仕え、神に仕えることを人間の本分であると信じるのです。このたびの戦いは、神皇に仕える者と、自己に仕える者の戦いであるのです。

自由主義的世界観と皇道世界観のどちらが真でありどちらが偽であるかまたどちらが正でありどちらが邪であるかは、親から生まれ神からはぐくまれる人間存在の根底を考えれば、答えは明白です。では、両者のうちどちらが強でありどちらが弱であるか、この問いに対してはイギリスのマレー軍司令官パーシバルが答えています。「イギリスの兵隊は毎朝お化粧をしなければ気が済まない。三度々々飯を食わないと不服を言う午後になって一杯のコーヒーにありつかないと不承不承である。然るに日本兵は幾日も幾日も飲まず食わず、休まず眠らず、獣も通らぬ密林を潜り、生死に超越して突っ込んでくる。之ではイギリス軍如何に勇猛果敢なりと雖も敵し得る筈がない」と。私どもは決してアングロサクソンの頑強強靭な性質を忘れるべきではありませんし、今日の日本海軍は当初はイギリ
ス海軍の教えの鞭の下にあったのです。しかし、イギリスの立つ根本の世界観は自由主義・民主主義です。これに立つ限り、人は自分がこの世にある所以が、おのおのの幸福や人格の完成、あるいは宗教的救済解脱にあることを否定できないのです。もちろん、イギリス将兵においても、「自己」とするものは人によって違います。ですが、口腹の満足を得て「自己」とする者も、祖国に対する義務を「自己」の本分とする者も、「自己」を存在の目的とすることにおいては変わりはないのです。口腹の満足を存在の目的とする者は、口腹が満足しているうちは勇敢に戦いますが、口腹を満足させるに足りる食糧がなくなった時には降伏します。祖国への義務を目的とする者も、自己の義務遂行のために邁進しますが、義務を果たし終わったと確信すれば戦いをやめるのです。私が思いますに、イギリス将兵奮戦の限度はこの「義務」でありましょう。このような自由民主国の将兵に対し、皇軍将兵は何をその本分とするのでしょうか。それは、軍人勅諭第1条に示されているように、忠誠を尽くすことを本分とするのです。忠誠を尽くすとは、天皇にお仕えし、防護するということです。天皇は日本国民にとってだけでなく、世界人類にとっての絶対の至尊ですから、絶対の至尊を護ることが日本軍人の任務ということになります。従って、皇軍将兵の任務は絶対であり、ゆえに皇軍将兵に戦いの限度はあり得ないのです。これが皇軍将兵に降伏なき所以です。

このように敵を粉砕しなければやまざる思想信念に生きる将兵・国民と常に一定の限度の下に戦う将兵・国民とを比べると、どちらが強でどちらが弱でしょうか。パーシバルの言葉は的確にこの問いに答えています。要は、皇軍将兵だけでなく、一億国民がこの日本皇道世界観に徹するかどうかにかかっているのです。今次世界戦勝敗を決するのは、日本国民がこの日本思想戦を日本人として徹底的に戦い貫くか否かにかかっていると言っても過言ではないでしょう。

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鹿子木員信氏の経歴

鹿子木 員信 かのこぎ・かずのぶ

1884(明治17)年11月3日、山梨県甲府に生まれる。哲学者・全体主義的思想運動家。父・鹿子木才七、母・歌子の3男。父は旧熊本藩士、母の実家・松島家も同じ。甲府は父の赴任先であった。徳富蘇峰・蘆花の両親とも、キリスト教を通じても親交があった。1896年父の死去後、員信を養育した長兄・小五郎は香川県・和歌山県・岐阜県の知事を歴任し、貴族院議員(勅選)も務める。次兄・彦三郎は蘆花の姪・河田ちゑ子と結婚している。員信は東京府立一中を経て海軍機関学校を卒業後、巡洋艦・八雲に乗り組み、日露戦争に従軍。学生時代から、内村鑑三・海老名弾正の影響を受ける。戦闘に参加し、沈没するロシア艦船と将兵に遭遇して人生に懐疑的になる。明治39年、中尉にて海軍をやめ、京都帝国大学哲学科選科で学び、翌07年アメリカに渡り、コロンビア大学で修士号取得。ユニオン神学校も卒業する。明治43年ドイツに渡り、イェーナ大学・ベルリン大学で学び、オイケン(イェーナ大学)の指導下に博士号を得た。大正2年4月に帰国し、翌3年慶応義塾大学の哲学科教授に就任(7年3月まで)。7年4月、哲学研究のためインドに渡り、ヒマラヤ登山。インド独立運動を支援したため、逮捕(8年2月)され国外追放される(4月帰国)。大川周明・北一輝らと猶存社創設に関わる。10年4月、東京帝国大学文学部哲学科の講師となる(12年3月まで)。12年3月、文部省在外研究員として、帰国後は九州大学赴任を前提にドイツ・イタリア・アメリカ等に渡る(15年7月帰国)。15年9月九州帝国大学法文学部教授、昭和7年2月、学部長となる(1年間)。この間もたびたび海外へ出張(昭和2・4?4・4ベルリン大学客員教授、7?12満洲・中華民国)したり、満蒙研究会・九大皇道会などを組織する。12年12月から翌年7月まで陸軍北支派遣軍司令部付「最高顧」(中将待遇)を命じられる。14年4月九大を依願退官後、皇国学団などに関係し、17年12月に発足した大日本言論報国会(会長・徳富蘇峰)専務理事兼事務局長に就き専念する。20年8月敗戦とともに言論報国会は解散し、11月24日A級戦犯として巣鴨に拘置されるが、21年12月肺浸潤のため米軍病院に移送され、翌22年2月8日退院、鎌倉の家族の許への帰宅を許される(自宅幽囚)。昭和24年12月23日、鎌倉にて逝去。大正2年に来日した、最初の妻・コルネリア(ロシア人の父はポーランド生まれ。母はドイツ人)とのあいだに1男(健日子)1女(綾子)が生まれるも、昭和4年離婚。コルネリアは、旧制成城高校・武蔵高校などでドイツ語教師として勤務する。著書に『観察と回想』(郁文堂、昭38)がある。員信は32年駒井寿美子と再婚、基員が生まれるも、昭和12年に福岡にて妻は病没。15年に家坂幸江と結婚し、浄子が生まれる。ヨーロッパ滞在中は登山・山岳スキーにも親しみ、慶大山岳会・東大スキー山岳部の創立に関わる。「全体主義」を世界でもっとも早い時期に提唱した一人。著書に『アルペン行』(政教社、1914→覆刻版・大修館書店、1975)、『文明と哲学的精神』(慶応義塾出版局、1915・12→新装版・文川堂書房、1943・2)、『永遠の戦』(1915.12)、『戦闘的人生観』(同文館、1917→再版・文川堂書房、1943)、『ヒマラヤ行』(政教社、1920→覆刻版・大修館書店、1978)、『仏蹟巡礼行』(大鐙閣、1920・
7)、『理想主義的悪戦』(京文社出版、1926・9)、『やまとこゝろと独乙精神』(民友社、1931・4)、『日本精神の哲学』(直日のむすび出版部、1931・7→再版・文川堂出版、1943)、『新日本主義と歴史哲学』(青年教育普及会、1932・4→普及版1934・8)、『皇国主義』(大倉精神文化研究所、1935)、『すめらあじあ』(同文書院、1937・12→増訂版1939)、『皇国学大綱』(編著・同文書院、1941・5)ほか。

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